油津港の歴史
●油津港の由来
油津の地名は、神武天皇のお妃、吾平津妃のお立ちになった故地に由来し、吾平津神社の縁起にもなると言われています。
吾平津神社は、海の民・油津の人たちの氏神でもありますが、古代神話に彩られる鵜戸の岩屋同様、油津も神代の浦であり、自然が織りなす天然の良港であったそうです。
また、7世紀ごろ油津の浜に百済の王漂着の伝説が田野町に伝わっております。
●倭冠の基地油津
1556年明国から倭冠の禁を乞うため、使者が来ましたがその時日向沿岸を通航し倭冠の港として油津・外浦・目井津・内海・細島をあげており、油津が倭冠の基地であったことがうかがえます。
徳川幕府となって対明貿易の自由な海路を閉ざしたため、以来急速に日向沿岸の各港はさびれ油津も例外ではなかったようです。
●江戸時代の油津
江戸時代油津港を基地として飫肥杉を造船場が多い播磨地方に千石船 (俗称:弁財船、弁財造り)で運ばれ、木材積出し港として次第に重要性を増していった。さらに 17世紀中ごろ、藩財政建て直しのため植付けを大々的に行い、この時の杉が閥期に入った50年後の貞享3年(1686年)に広渡川から油津港への木材を運ぶ堀川運河 が完成。酒谷の山奥から運ばれた飫肥杉(弁甲)が堀川運河にあふれ港は活気に満ちていた。
江戸末期に至り、油津港から取扱われていた物産は弁甲を主体とする杉材が全体の36%、かつお節や干魚など水産加工品が20%前後、米やその他42%であったそうです。
●ブリ漁
明治33、4年に油津でブリ漁がはじまり、油津漁協に水揚げされたブリ本数が1日最高4万匹であったとの記録が伝えられているが、豊漁は昭和30年代後半まででその後漁はばったりと止んだ。
戦後国定公園日南海岸の道路が開かれ沿岸に土砂流出が続いてプランクトンを生む磯辺を土砂で埋めたことが一因と言われている。
●日本一のまぐろ基地
大正末期から昭和16年ごろまで油津港はクロマグロの豊漁でにぎわい、15年間ぐらい日本一のまぐろ基地として有史来の好景気があった。
全国からまぐろ延縄漁船が集り、種子・屋久漁場から油津沖にかけての近海で豊漁期を向え油津市場の相場が全国の相場を支配したと言われている。
●特攻兵器「回天」の地
昭和19年、日本海軍特攻兵器「回天」の基地となり米軍の南九州上陸に備えた。 格納庫には8隻ぐらいをレールを海に向け出撃を待つが終戦で特攻兵器は港東沖防波堤近くに放置され、台風により港内に沈み艇は米軍により爆破された。
以上、日南市産業活性化協議会(NIC21)編 「油津 海と光と風」から抜粋とりまとめてみました。