小倉城の白州灯台
  若松海上保安部が管理している白州灯台は、豊前国企救郡長浜浦(現在の北九州市小倉北区長浜町)の庄屋「岩松助左衛門翁」が白州周辺の絶えない海難を防止するため私財を投げ打って白州への灯台建設に奔走し基礎部を完成させたものの志半ばで死去、以降明治政府に引き継がれ完成したものです。
 岩松助左衛門翁の功績を後世の市民に伝えるため、小倉城に翁が設計した白州灯台を模した塔が建てられています。
岩松助左衛門翁と白洲灯台
「岩松助左衛門翁顕彰会」様パンフレットより転載

 岩松助左衛門は、文化元年(1804年)豊前国企救郡長浜浦で生まれました。18歳で長浜浦の庄屋となり、以来41年間庄屋を務め、その後その功績と経験が認められ「小倉藩海上御用掛難破船支配役」という役職を命ぜられました。

 小倉沖の響灘は筑前・肥前方面から瀬戸内海へ往来する航路、また日本海からやってくる北前船が通行する海の幹線で、幕末・維新の頃には1年間に2万隻もの船が航行していました。しかしこの辺りは、暗礁が多く急潮のため、船乗りからは海の難所と恐れられていました。その中でも特に、藍島の西南1kmのところにある白洲と呼ばれる大暗礁(長さ140m・横100m)での海難事故は後を絶ちませんでした。

 庄屋の頃から難破船の救助を数多く経験してきた助左衛門は、この暗礁の危険から航海者を守るためにこの白洲に常用灯の灯籠台を建てることを発案し、文久2年(1862年)4月、小倉藩に白洲灯籠台築立願を提出しました。

 時は幕末から明治へ変わろうとする大混乱の世情の中、助左衛門は岩松家の全財産を投じ、不足の建設資金は募金・借金と奔走しました。近隣漁民の反対、事業を支えてきた妻とみの死など幾多の困難を乗り越え、ついに明治3年(1870年)7月基礎築立の竣工をみることが出来ました。

明治4年(1871年)4月、明治政府は海の交通整備を図るために危険な航路に灯台建設を進めるための灯台寮を設置。助左衛門の進めてきた工事は政府に受け継がれることになりました。

 明治5年(1872年)3月、白洲での建設工事が始まりました。しかし、人命尊重の悲願のために一念を燃やし続けた岩松助左衛門は同年4月25日、白洲灯台の点灯をみることなく死去しました。助左衛門が造った旧施設は、政府が買い上げ明治6年(1873年)9月6日、ようやく白洲灯台は完成。正式の灯台として発足しました。