組織
宮崎海上保安部は、海上保安庁が全国69か所に配置する海上保安部の一つです。宮崎県日南市油津港に事務所を置き、主に宮崎県沿岸海域と日向灘を管轄しています。
また、宮崎海上保安部の管轄下に「日向海上保安署」(平成22年4月1日をもって「細島海上保安署」から改称しました。)があり、日向市細島港に事務所を置いて宮崎海上保安部の事務の一部を分掌しています。
なお、各海上保安部は、全国に11ある海上保安管区のうちのいずれかに属していますが、宮崎海上保安部は、南九州3県(熊本、宮崎、鹿児島)の5つの海上保安部を統括する「第十管区」に属しています。第十管区の本部(第十管区海上保安本部)は鹿児島市に事務所を置いています。
宮崎海上保安部は、事務部門として管理課、警備救難課及び交通課を置き、海上の実動部隊として、巡視船艇を宮崎海上保安部に2隻、日向海上保安署に2隻の計4隻配備しています。
宮崎海上保安部の沿革
宮崎海上保安部は、昭和23年5月1日の海上保安庁発足と同時に、当時の鹿児島海上保安部管轄下の「油津警備救難署」として発足したのが第一歩です。
昭和25年6月には、鹿児島海上保安部から分離・独立して「油津海上保安部」に昇格、昭和36年10月には管下の日向市細島港に「細島海上保安署」(現「日向海上保安署」)が設置されました。
昭和40年4月には、旧南郷町大島に所在した「鞍埼航路標識事務所」を統合して「灯台課」が設置され、さらに、平成13年4月には、細島と串間に所在した2か所の航路標識事務所も統合して、「航行援助センター」が設置されました。
そして、平成19年4月、それまでの「油津海上保安部」の名称を「宮崎海上保安部」に改めるとともに航行援助センターを「交通課」に改組し、また、平成22年4月1日、「細島海上保安署」を「日向海上保安署」に改称して現在に至っています。
海上保安庁の生い立ち
海上保安庁は、戦後発足した比較的若い官庁といわれます。そこで、なぜ海上保安庁が誕生したのか、その生い立ちや意外な歴史秘話などをご紹介しましょう。
第二次大戦後、連合軍の占領下にあった日本の周辺海域は、極めて危険で治安も悪化していました。それは、戦時中日米両軍が敷設した多数の機雷が港湾や水路をふさぎ、また、朝鮮半島などとの間では密輸密航などの悪質な犯罪が多発していたからです。
そんな中、昭和21年初夏、朝鮮半島にコレラが蔓延し、この侵入をおそれた連合軍当局は、朝鮮半島からの密航を阻止するための緊急対策を日本国政府に指示しました。同年7月1日、政府は当時の運輸省海運総局に「不法入国船舶監視本部」を、九州海運局に不法入国船舶監視部を置き、門司、仙崎、博多、唐津、長崎、若松の6か所を基地として監視船が配備されました。
この不法入国船舶監視本部が海上保安庁の前身となったわけですが、この段階では、まだ、不法入国の監視だけが任務であり、その後の海上保安庁が担うこととなる他の業務は、運輸省海運局、灯台局、水路部などの組織が別々に行っていました。
そこで、連合軍側から、「米国沿岸警備隊」(USコースト・ガード)のように海上における治安の維持や船舶交通の安全確保などの任務を一元的に行う組織の必要性が勧告され、政府内で検討された結果、昭和23年5月1日運輸省の外局として「海上保安庁」が正式に発足しました。このとき、運輸省の灯台局や水路部も海上保安庁に移管され、現在の海上保安庁の組織と任務の骨格が整ったのです。
機雷掃海も行った海上保安官
終戦当時、日本近海は、戦時中に敷設された6万個におよぶ機雷が残る極めて危険な海と化していました。兵器である機雷の掃海(除去や処分)は一般に海軍の役目ですが、戦後日本海軍が消滅したため、機雷の掃海も発足まもない海上保安庁が担うこととなりました。
すなわち、海上保安庁の中に「航路啓開隊」が組織され、旧海軍の掃海艦船を使用して日本各地の港湾や水路で危険な掃海業務が行われました。掃海は、作業中の触雷爆発により多くの死傷者と掃海船の被害を出しながら続けられ、昭和27年1月には主要航路について掃海を終了し安全宣言を行いました。この機雷掃海の業務は、昭和27年8月自衛隊の前身である「保安庁」(名前は似ていますが、海上保安庁ではありません。)の発足に伴って同庁に移管されるまで続きました。
朝鮮戦争にも出動した海上保安官
昭和25年6月に朝鮮戦争が勃発すると、海上保安庁の掃海船25隻が「海上保安庁特別掃海隊」として朝鮮水域の掃海に出動しました。この任務中、触雷による爆発で掃海船1隻が被害を受け、海上保安官19名が死傷しています。
海上保安庁から生まれた?海上自衛隊
昭和26年6月朝鮮戦争勃発を契機に日本国内の治安に万全を期すため、陸上部門に「警察予備隊」が発足、海上部門では、昭和27年4月海上保安庁の体制を強化し「海上警備隊」が発足しましたが、同年8月には自衛隊の前身となる「保安庁」の発足に伴い、海上保安庁の航路啓開隊とともに「保安庁」に移管され、これが昭和29年7月の防衛庁発足に伴い現在の海上自衛隊となりました。
海上保安庁よりも長い灯台の歴史
海上保安庁は、平成22年で創立62周年を迎えますが、その主要な業務のひとつである灯台の歴史は、それよりもはるかに古く142周年を迎えます。
日本における本格的な西洋式灯台の歴史は、江戸末期にまでさかのぼります。すなわち、幕末の開国に伴い江戸幕府は諸外国の要求を受けて灯台の建設を計画しましたが、明治維新によりこの計画は新政府に引き継がれ、明治元年11月1日東京湾口の「観音崎灯台」が初めて起工されました。この日を灯台の歴史の始まりとして11月1日が「灯台記念日」となりました。この観音崎灯台を皮切りに日本全国に続々と灯台が建設され、明治17年には宮崎県内にも大島に鞍埼灯台が建設されました。
また、灯台の建設と維持管理を担う機関としては、明治4年8月工部省灯台寮が発足、その後同18年6月に逓信省灯台局に改組、さらに、戦時中の昭和16年12月に海務院航路部、昭和18年11月には運輸通信省海運総局、昭和19年2月から運輸通信省灯台局と組織が変遷しました。
そして、昭和23年5月の海上保安庁発足に伴い海上保安庁灯台部となり、平成15年4月1日に現在の「海上保安庁交通部」に改組されました。
このように、灯台を所管する組織は、この142年の間にめまぐるしく変遷して来ましたが、その間も、灯台守たちは黙々と灯台の灯を守り続けて来たのです。
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