海の逸話シリーズ ![]() |
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| 浜田海上保安部--海から見た石見銀山--HAMADA J.C.G Office | ||||||
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| 第ニ話 世界に知られた石見銀山 | ||||||
![]() 博多御公用銀 日本銀行金融研究所 貨幣博物館提供 |
約500年前の戦国時代、出雲・尼子氏の製鉄業と山口・大内氏の精銅業による富を軍資金にして争った島根県石見地方。 そんな時に石見銀山が発見されました。 一方、日本から遠く離れた西欧諸国では、未開発地の金銀財宝とアジアの香辛料を奪いあう大航海時代が始まりました。 ポルトガル人の商人であり、海賊であったメンデス・ピントが書いた『東洋遍歴記」には、次のような記録があります。 「1542年、南シナ海において、(ピントが乗る)中国船がイスラム教徒の海賊に襲われた。しかしその船を逆に乗っ取り、8万両の銀を手に入れた。この8万両の大部分の銀は日本の銀で、長崎から中国に向かう中国船がイスラム教の海賊に奪われたものだった」 この日本銀こそ、石見銀山の銀なのです。 一年後の1543年、種子島に鉄砲が伝来します。 その日、和歌山・根来 | |||||
| @21世紀の東アジアの海 | ||||||
| 昨年末発生した人類史上最悪のインドネシア・スマトラ島沖地震・津波の震源地近くに、ナングロアチェ・ダルサラム州バンダアチェ(Aceh)という港があります。 その昔、大航海時代には、アラビアからの「風下の地」として知られたアチェ王国がありました。 現在のアチェは、インドネシアからの独立を求めている敬虔けいけんなイスラム教の地域であり、イスラム教徒にとって、人生最高の願いでもあるメッカ巡礼への出発港なのです。そして、世界最大のイスラム国家が人口二億人のインドネシア共和国なのです。 |
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![]() フィリピン西方の公海上を航行中の 日本タンカーと巡視船「みずほ」との官民連携訓練 海上保安レポート2003 |
平成17年3月14日、日本船籍「韋駄天」(498トン、日本人8名、フィリピン人6名乗り組み)がマレーシア領海内のマラッカ海峡を航行中、武装集団が乗り込んだ小舟に襲撃され、日本人の船長・機関長の2名、フィリピン人1名の3名が連れ去られるという事件が発生しました。 平成17年2月7日、海賊対策の国際機関である国際海事局(IMB)は、2004年(平成16年)の一年間に世界で発見した海賊による被害回数を325件と発表しました。 マラッカ海峡は、年間7万隻を超える船舶が通行する世界一の輻輳海域であり、最大の利用国が日本です。 マラッカ海峡は日本の生命線と言われ、1万4千隻の日本船が通行し、80%を占めるのがタンカーなのです。 海上保安庁は、平成11年10月、インドネシアとマレーシアの間にあるマラッカ海峡において日本の船会社貨物船「アロンドロ・レインボー」が海賊に襲撃された事件を機に、平成12年からマラッカ海峡を中心としたアジア海域にその白い船体の巡視船を派遣し、沿岸国とともに共同で警備・捕捉訓練を行っています。 さらに、海上保安庁は、平成17年、南シナ海において多発する海賊事案対応等のため新型ジェット機(ガルフV)を就役させました。 |
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![]() IMB (国際商業会議所国際海事局)資料 |
なぜ、海賊が多く発生するマラッカ海峡を通るのでしょうか? 原油を満載した大型タンカーが、マラッカ海峡を通る場合とそうでない場合の比較をすると、マラッカ海峡経由の方が中東−日本までの日数が3日短縮できると言われています。 なぜ、マラッカ海峡に海賊が多いのでしょうか? マラッカ海峡は、船舶交通の難所で、狭い海峡内に浅瀬が多く、決められた航路をゆっくり航行することが決められています。重武装した海賊が速度を落としている商船を襲撃するのです。当初は、貧困から金品を奪う目的での海賊行為が、最近では、宗教や民族対立などの身代金目的の行為が増加していると言われています。 なぜ、最近増加しているのでしょうか? 2000年、マレーシアの首都クアラルンプールに海賊情報センターを設置し、全世界における海賊情報を24時間体制で収集し、航行船舶等に周知するなどの取り組みに対し、商船会社が被害事実を公表するようになったためと言われています。 |
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![]() 海賊対策専門家会合 ![]() タイ王立海上警察等との 連携訓練開会式 ![]() タイ王立警察との連携訓練 ![]() フィリピンコーストガードとの 連携訓練 海上保安レポート2003,2004から引用 |
[H12度] ◎海上保安庁は、9月「アジア海賊対策チャレンジ2000」の具体化のため、海上保安官をフィリピン、マレイシア、シンガポール、及びインドネシアに派遣した。 ◎11月、インドにおいて横浜海上保安部所属巡視船「しきしま」とインド沿岸警備隊との海賊対策連携訓練を実施しました。 ◎海上保安長官とインド沿岸警備隊長官との政策対話が実施されました。 ◎同月、マレーシア(クアラ・ルンプール)においてアジア地域15カ国の海賊対策専門家会合に海上保安官が参加し、巡視船「しきしま」とマレイシア王立警察との海賊対策連携訓練を実施しました。 [H13度] ◎海賊・テロ対策のため、10月フィリピンへ名古屋海上保安部所属巡視船「みずほ」、11月タイへ那覇海上保安部所属巡視船「りゅうきゅう」、翌年2月横浜海上保安部所属巡視船「やしま」をインドネシアへ派遣しました。 ◎8月フィリピン・タイへ、翌年3月ブルネイ・インドネシアへ羽田航空基地所属の海上航空機を派遣しました。 ◎10月 東アジア9カ国の海上警備機関による「海上犯罪取締りセミナー」を実施しました。 [H14度] ◎海賊・テロ対策のため、8月ブルネイへ「みずほ」、10月マレイシアへ「やしま」、翌年2月フィリピンへ「りゅうきゅう」を派遣しました。 ◎7月 マレイシア・シンガポール・インドネシア、12月ベトナム、フィリピンへ航空機を派遣しました。 ◎7月フィリピン沿岸警備隊(PCG)人材育成のため海上保安官を派遣しました。 ◎翌年3月インドネシア・コーストガード設立構想支援のため、また、フィリピンへ、アジア地域16カ国海賊対策専門家会合のため海上保安官を参加させました。 [H15度] ◎海賊・テロ対策のため、6月マレーシアへ「やしま」、11月シンガポールへ「みずほ」、翌年2月タイ・フィリピンへ「りゅうきゅう」を派遣しました。 ◎9月フィリピン・タイ・シンガポールへ、航空機を派遣しました。 ◎9月インド沿岸警備隊巡視船サングラムが神戸を訪問し、連携訓練を実施しました。 ◎10月マレーシア海上保安機関創設チーム、翌年1月インドネシア海上保安機関設置ワーキンググループが海上保安庁施設を視察しました。 ◎翌年2月 タイにおける海賊対策専門家会合に代表団を派遣しました。 [H16度] ◎6月東京において、初の「アジア海上保安機関長官級会合」を開催しました. ◎海賊・テロ対策のため、東南アジア海域へ10月「みずほ」、11月「しきしま」を派遣しました。 ◎7月フィリピン・インドネシア・マレーシアへ、翌2月フィリピンへ航空機を派遣しました。 ◎11月第2回フィリピン海上保安人材育成プロジェクトのため海上保安官を派遣しました。 =海上保安レポート2002,2003,2004,2005から引用= |
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| A500年前の東アジアの海 | ||||||
| 1510年、朝鮮にいた三浦(壱岐、対馬、博多松浦を総称して「三浦」と言われた)の日本人が騒乱を起こしたと記録されています。 同年、ポルトガル人・バスコ・ダ・ガマがインドの都市ガマを占領し、さらに、1521年マラッカ海峡の玄関マラッカを占領しました。 1523年、中国・寧波ニンポーの港で、室町幕府派の細川氏と反幕府派の大内氏の日本人乗組員同士が武力衝突し、日本船が締め出されたと記録されています。 明国は、銅が海外に流出することを防ぐため、海禁政策をとったことから、東アジアの貿易体制が崩れ、明国の国力低下や室町幕府の弱体化が進み、中国や日本の地方有力者達が東アジア海域にかけて密貿易や海賊を行っていきました。 中国の海禁政策のため、琉球(沖縄)王国は、東南アジアのベトナム・カンボジア・フィリピンなどの諸国との中継貿易で勢力をあげていきました。 |
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倭寇は、初め日本人だけでしたが、後には、中国人の密貿易業者が主となり、更に日本人・朝鮮人、そしてポルトガル人、スペインなどを含んだ海賊集団となったと言われています。 明国の記録にも、「真倭は23、偽倭は77」と書かれてあると言われています。 日本船に見せるため、「八幡大菩薩」の旗を立てていたとも言われています。 1526年、石見銀山が発見されました。 1533年石見銀山に灰吹法が導入され、銀の生産が著しく増量できたという。 朝鮮の記録によれば、「1542年、日本銀8万両が朝鮮に持ち込まれた。銀山発見から、10年にもならないのに日本銀がありふれたものになった」らしいのです。 また、中国の記録によれば、「日本人は中国の物産を銀で買っていくが、南蛮人たちは物々交換」らしいのです。 1542年、長崎から中国に運ぶ中国船が積荷の八万両もの日本銀をイスラムの海賊に略奪されています。 (1542年は、佐渡金山(新潟県)・生野銀山(兵庫県)が相次いで発見された年で、この八万両の日本銀は全て石見銀と考えられます。) 1543年、種子島に中国倭寇の首領王直おおちょくの船が漂着し、ポルトガル人が持っていた鉄砲が日本に上陸しました。 1544年、スペインが新大陸にポトシ銀山(ボリビア)を発見しました。 スペイン人は、銀の採掘に現地人を使用しました。 (1533年、スペイン人は、インカ帝国を滅亡させています。) 1547年、ポルトガルが中国マカオに居住権を認められます。 1549年、肥前第二五代当主松浦隆信まつらたかのぶは、王直を平戸に住まわせています。 同年、鹿児島にフランシスコ・ザビエルが上陸しました。 1550年、隆信は、キリスト教の布教を許可し、ポルトガル船の平戸への入港を許可し、ポルトガル貿易に力を入れ経済力が増加するのです。 1559年、明の総督・胡宗憲が王直を倒し、1564年中国福建省の沖で倭寇の主力を破り、その勢力が急激に衰えました。 |
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| ポルトガルは、中国との交易を求めましたが、中国の朝貢相手であったゴア王国やマラッカ王国を占領したため認められませんでした。ポルトガルは、中国に認めてもらうために、必死に倭寇を退治し、マカオに居住権を得たのですが、ポルトガルの交易はあくまで私的な貿易(密貿易)だったのです。 石見の銀は、中国・朝鮮の経済の根幹である銅貨に影響を与え、さらに、中国の税金を銀に変更するような影響も与えながら、東アジアの海を行き来する西欧・中国・朝鮮・琉球等諸国の交易を通じ、世界の歴史の中に拡大していきました。 |
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| B大航海時代 | ||||||
| ◎16世紀のポルトガルとスペイン | ||||||
| 16世紀、絶対王政の国であったポルトガル・スペインは、金銀を蓄えることが国力という考えでした。 また、香辛料は、ヨーロッパ人にとって、食料である肉の防腐剤・調味料でした。 この必需品である香辛料が「異教徒(イスラム教徒)の悪魔」に牛耳られていたのです。 十字軍の遠征によって、イスラム圏の繁栄が香辛料貿易によるものとわかったのでした。 1494年、ローマ教皇はポルトガル人の大航海に対して特権を与えました。 ローマ教皇は、ポルトガルとスペインが新たに発見した土地を大西洋で二分し、東側をポルトガル、西側をスペインのものにする条約(トルデシリャス条約)を結ばせたのです。 この条約は、地球を二分するという線の最初の線を決めましたが、片方の線を決めていなかったのです。現在では考えられないこの条約は、ローマ教皇とポルトガルとスペインとの強大な関係を示すもので、この無法な条約に対してどこの国も反対できなかった事からも明らかでしょう。 [1497年、毛利元就もうりもとなり誕生] ポルトガルは、インドに向け、暗黒のアフリカ大陸の西岸を南下します。 この当時の船乗りは、アフリカを南下すれば気温が上がる、赤道近くになると原住民達の皮膚の色が黒くなる、このまま南下すれば、海水は煮えたぎり、人間は蒸発するのではないかと恐れたのでした。船隊の1隻が、恐怖のあまり、帰国してしまったほどでした。 |
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| 1498年、ポルトガル人バスコ・ダ・ガマが乗組員を説得し、アフリカ喜望峰を越え、インドに到達したのです。この航海で、バスコ・ダ・ガマは、現地で水先案内人としてアラブ人天才航海者イブン・マージドを雇い入れ、インド到着に成功し、ポルトガルに帰国できました。 ガマは、ポルトガルの特産品と香辛料の物々交換をしましたが、ポルトガルの特産品の評価が低く、思うように香辛料との交換ができなかったのです。ガマは、持ち帰った香辛料が少ないとして、国王の不評を買ってしまいます。1502年、ガマは、二回目の遠征に向かいました。今度は武力によって香辛料を得るためでした。 [1507年、大内義隆おおうちよしたか誕生] 1510年、ポルトガルは、武力でインド・ゴアを占領、さらに、1521年マラッカ海峡の玄関口であるマラッカを占領し、香辛料貿易の拠点作りをしました。 [1514年、尼子晴久あまこはるひさ誕生] ポルトガルは、中国との貿易を求め、断わられます。 中国は、主従関係ではない国との交易を認めない国でした。 当時の中国は、文化資産の宝庫であり、西欧の特産品に興味もなかったのでしょう。 そこで、ポルトガルは、香辛料の原産地モルッカ諸島での交易を独占します。 しかし、原住民は、ポルトガルの力ずくのやり方に不満をもち、香辛料を昔のようにアラブ人に渡すようになっていきます。 [1528年、明智光秀あけちみつひで誕生] 1529年、ポルトガルは、スペインとのアジア支配の争いに勝利します。 ポルトガルは、トルデシリャス条約で決めた大西洋で地球を二分した後の片一方の境界線を決める条約(サラゴサ条約)に勝ったのでした。 [1530年、大友宗麟おおともそうりん誕生] [1534年、織田信長おだのぶなが誕生] [1537年、豊臣秀吉とよとみひでよし誕生] [1542年、徳川家康とくがわいえやす誕生] 1543年、中国人倭寇の首領王直の中国船に乗ったポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えます。ポルトガルは、中国人に貿易を認めてもらおうと東シナ海の海賊を討伐し、1547年、中国からマカオに居住権を認められました。 [1545年、大久保長安おおくぼながやす誕生] [1549年、フランシスコ・ザビエル鹿児島上陸] [1551年、大内義隆死亡] [1551年、ザビエル離日 ] [1560年、桶狭間おけはざまの戦い] [1560年、尼子晴久死亡] [1562年、毛利元就、石見銀山支配] 1566年ポルトガルは、マカオを占領してしまいました。 シャム(タイ)・ベトナムから火薬に大切な原料である硝石が産出されました。 ポルトガルは、キリシタン大名大友氏の要請により鉄砲火薬の原料である硝石を赤間崎(下関)に運び入れていました。 毛利氏は、出雲の製鉄(銃身)、長門・長登銅山からの鉛(弾丸)、そしてポルトガル人が運び入れる下関の火薬原料を手に入れることができました。これも全て石見銀による軍資金があったからではないでしょうか。そして、ポルトガルは、火薬で大量な石見銀を獲得できたのです。 しかし、1581年、ポルトガルの国自体は王家の存続ができなかったため、スペインに併合されてしまいました。 |
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| 一方のスペインは、1492年、コロンブスが黄金の国ジパングに向け出港し、69日目に新大陸を発見することになります。コロンブスは、スペイン女王の援助を受け、4回にも及ぶアメリカ航海を実施し、カリブ海にある西インド諸島から南米までの探したが、東洋にあるはずのクローブ・ナツメグはなかったのです。コロンブスは、最後までアメリカをインドの一部、ハイチを日本と思い込み、没します。 フレデリック・マゼランは、1519年、五隻の船に250人を乗せ、世界一周をめざします。 大西洋を横切り、南アメリカを越えますが、マゼラン船隊の1隻も、恐怖のため帰国し、太平洋を多数の犠牲者を出しながらも、3ヶ月間かかり、1521年にグアム島にたどり着きます。 マゼランは、インドネシアのモルッカ諸島を目前にして、1521年4月にフィリピン・マクタン島で死亡しています。残った乗組員が苦難の末、1522年9月、人類初の世界一周を終えたのでした。スペインにたどり着いたビクトリア号(180トン)には、わずか18名しか乗っていなかったと言われています。 この航海で、マゼランは、南アメリカ最南端のマゼラン海峡やグアム島を発見し、また、航海した3ヶ月間が平穏な海だったことから、「太平洋」という名を付けました。 マゼランは、南米ペルー沖からグアム海域に流れる「北赤道海流」に乗り、人類史上初めて、太平洋を横断しました。もし、グアム島を見逃したら、もし、ちょっと南風が吹いたら、日本海流(黒潮)に乗って、琉球(沖縄)か日本にたどり着いていたかもしれません。 日本の歴史や世界史が大きく変わったかもしれません。 1544年、南米ボリビアの奥地でポトシ銀山が発見され、また、チリでも火薬の原料である硝石が発見されました。北米の原住民がインディアン、南米がインディオといずれもインドを意識しているのでした。 [1571年、毛利元就死亡] 1571年、スペイン・ローマ教皇軍317隻とオスマントルコ軍242隻がギリシャ・レパント沖での戦い(レパントの海戦)で、スペイン連合軍が勝利しています。 1581年、イギリスの支援を受けたオランダがスペインから独立しました。 [1582年、本能寺の変、織田信長(49歳)・明智光秀(54歳)死亡] |
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| 15〜16世紀の西欧諸国は、アジア諸国に特産品を求め、その交易の利益の元手にしてアジアにある香辛料を手に入れ本国に帰りました。香辛料は、原価の数千倍の価格で取引されました。16世紀のイギリスという国は、海賊国家でした。 この当時のイギリス、スペイン、ポルトガルの商船は武器を備えており、敵国商船を攻撃し、荷物を奪い合うのでした。 特に、イギリスにとって、新大陸から金銀を積んだスペイン船は、最高の攻撃目標でした。 イギリス・エリザベス1世は、海賊ドレーク(1543〜96)にマゼランの開拓したコースをたどり、香料諸島(モルッカ)を目指せと指示し、 ドレイクは、二番目に世界一周をなし遂げた男となりました。 1588年、その後のドレイクは、イギリス海軍の艦隊司令長官となり、スペイン無敵艦隊を破るのでした。 |
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| ◎17世紀のオランダ、18世紀のイギリス | ||||||
| 17世紀になると、貿易を盛んにして、輸出を増やし、輸入を減らせば、国の財政力は増大するという考えが主流となり、プロテスタントの新教国オランダ、イギリス、フランスが台頭しました。ヨーロッパ各国は、自国から遠い農地と労働力を使って繁栄していく植民地政策を取りました。 ポトシ銀山の銀は、ヨーロッパばかりではなく、太平洋を越え、アジアにも大量な銀が持ち込まれました。中国が税金を銀で納めるという銀本位政策を取ったためでした。 また、ヨーロッパの金:銀の交換比率1:15が、中国では、1:10だったと言われていました。たとえば、ヨーロッパでは、1gの金には15gの銀が必要ですが、中国では10gで良いのです。また、次第に、香辛料貿易の旨みがなくなり、各国とも、中国の生糸、インドの綿布などの交易が盛んになります。ヨーロッパに持ち込まれたポトシの銀によって、ヨーロッパのインフレが激しくなり、生活必需品の商工業が発達していきました。 しかし、スペインは、新大陸から集めた莫大な金銀を軍事費や国王の生活で浪費し、更に何ら国内産業を育てなかったため、次第に国力が衰えていったのでした。 |
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1600年、イギリスは、インドに東インド会社を設立し、ここを拠点にし、東シナ海で、ポルトガル船の香辛料、スペイン船のポトシ銀を略奪する海賊行為で勢力を伸ばしていきました。また、植民地インドの綿布貿易で財政を豊かにしていきました。 新教(プロテスタント)国のオランダ・イギリスは、カトリックのポルトガルやスペインとは異なり、キリスト教の布教を求めなかったのでした。 こんな時代の1600年3月、大分県にオランダ船リーデフ号が漂着しました。この船にはウイリアム・アダムス(後の三浦鞍人)が航海士として乗っていました。 徳川幕府は、当初、三浦鞍人を船長にして、インド、東南アジア方面への朱印貿易を行いました。 |
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オランダは、モルッカ諸島の香辛料を巡ってポルトガルと壮絶な戦争に勝ち、香辛料の交易を独占します。 1600年頃から200年間にわたってオランダ人は、ナツメグ貿易を独占し、その価格が暴落することのないように苗木が島外に出ることを禁じ、また、種が発芽しないような処理や木の焼却もしました。そして、350年間のインドネシア植民地の始まりでした。オランダのアムステルダムは世界の中心となっていきました。 1652年、イギリスは、中継貿易で繁栄していたオランダに対し、「航海法」を盾に嫌がらせを行います。 イギリス議会人クロムウェルが作った「航海法」の内容は、 「イギリスや同国の植民地に物品を運べる船は、イギリス船か生産物の原産国の船でなければならない」 というものでした。 |
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| 「国際法の父」であるグロチウスを生んだオランダは、航海の自由を主張しましたが、この理不尽な悪法(航海法)を主張したイギリスと三度戦い、敗れてしまったのです。 フランスがイギリス側についたためです。 敗戦協定の結果、オランダは、自力で建設した都市(現在のアメリカ合衆国・ニュ−ヨーク)をイギリスに放棄し、アジアのモルッカ諸島を取るしか方法がなかったのでした。 こうして、「オランダの世紀」と言われた「17世紀」が終わったのでした。 |
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17世紀後半から、イギリスは、植民地インドで綿花を栽培し綿布を運び、次に紅茶を飲むようになると、アメリカ大陸で黒人を使って砂糖を生産し、南米の銀で中国のお茶を購入しました。19世紀になると、インドでアヘンを栽培し、アヘンとお茶を交換するようになります。 オスマン帝国などイスラム国家は、スペイン・ポルトガル・オランダ・イギリス・フランスによる大西洋や南アフリカ航路の開発によって、地中海の中継貿易の旨みがなくなり、イスラム国の君主達のぜいたくな生活も困難になっていきました。 また、西欧諸国、特にイギリスは、産業革命によって、石見銀やポトシ銀による世界経済の物価高を克服したのに対し、イスラム国家には、なんら太刀打ちできる方法がなかったのでした。こうして、七つの海を支配する大英帝国が誕生するのでした。 |
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| C日明交易は、守護大名の勢力拡大の場 | ||||||
| 1976年、韓国の木浦の沖合いで、中国の寧波から博多に向かう途中で沈没した中国船が引き上げられたという。この船は、1323年6月頃、沈んだ船で、博多の承天寺、筥崎八幡宮という木簡が発見されたと報道されました。 14世紀の日明交易は、朝貢貿易でした。 朝貢とは、明の暦を用いた挨拶文と貢物を明王にささげ、主従(中国:主、日本=従)の形式を取ることでした。 1371年、日本が明に朝貢を行い、足利義光が使者として僧・祖来を南京に使わしたのが最初です。明国建国から3年後です。 また、明国三代皇帝「永楽帝」は、家来の鄭和(ていわ)に7回にも及ぶアフリカまでの南海遠征を命じました。鄭和は、イスラム教徒だったと言われています。 この遠征の目的は、中国の力を見せつけ、朝貢を進める目的だったらしく、毎回、60数隻の商船と数万人の乗組員で構成され、船の大きさは8000トンという大型船もおり、羅針盤も備えていたともいわれています。 1404年、室町幕府は、天皇家を無視して明国と勘合貿易条約を結びました。 天皇家にとって、日本は中国から独立した国家との考えだったので、朝貢などは許せないものでした。 |
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| 15世紀末、室町幕府の権威が衰え、守護大名の勢力が大きくなっていきます。 幕府が勘合貿易で莫大な利益が得られるにもかかわらず、貿易には欠かせない船がなく、貿易には周防の大内氏、九州の細川氏の船に頼るしか方法がなかったのです。 遣明船は、外洋を航海するために特別に作られた船ではなく、瀬戸内海地域の民間の商船を借り上げて利用していたと言われます。 当時の船は、平底船(船の底が平らな船)のため、波に弱く、冬季の航海は避けていたのです。 乗組員は瀬戸内海の各港から採用され、150名から200名が必要でした。 順風(追い風)の時は、帆を揚げ、無風又は逆風(向かい風)の時は、櫓を使ったらしい。 日本と朝鮮・新羅との関係が良好な時代には、朝鮮半島の西側沿岸に沿って航海したため海難が少なかったらしいのですが、朝鮮が海禁政策(鎖国)を取ったため、日本船は、博多・五島列島から寧波(ニンポー)まで黄海を一気に横断しなければならなかったのでした。 日中間の交通では、中国の寧波のみが入港を許されており、その他は禁じられていたのです。 海難の可能性が非常に高いにもかかわらず、それでも大船団を作り、日本政府を代表する僧などのエリート達や交易のための商人たちは、勇敢にも中国に渡ったのでした。 わずか片道10日程度の船旅だったと言われています。 今年、没後500年と言われ、島根県にゆかりのある、涙でネズミを描いたという画聖「雪舟」もこのようにして中国に渡ります。 |
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日本からの経路は、堺〜瀬戸内海〜博多〜五島〜寧波、又は堺〜高知沖〜薩摩坊津〜寧波に入港し、運河をとおり、天津〜北京というのが主要経路であったらしいのです。 日本の輸出品は、刀剣、銅、硫黄、染料、扇、蒔絵、屏風などでした。 中国の輸入品は、生糸、銅銭、書籍、綿布、花器、鉄器、茶器、薬品などでした。 日本は、宋の時代から大量に銅銭を輸入し経済に大いに貢献した。生糸についても、このような記録があります。 生糸一斤が銅銭では、800から1000文(1貫目)で買え、日本に持ち帰れば、5倍の5000文(5貫目)で売れたらしいのです。 ところが、銀では、1斤が325文で買え、銅銭で買うより10倍の利益になったのです。 また、中国の記録には、日本人は銀で物を買うが、西洋人は、物と物を交換していくと書いてあるそうです。 |
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| 当時の東南アジアでは、中国の銅銭を溶かして鍋などの生活用品を作る習慣があったらしく、中国では銅銭の海外流出が問題になってきたのでした。 また、朝貢貿易の明側は、諸外国からの輸入品が貴族達のぜいたく品であるものが多く、倉庫には象牙、宝石、香料などがあふれてしまい、これらの処分にも困ってしまいました。 反対に、輸出品は金銀、銅銭、鉛、陶磁器であったため、政府と結託した豪商や豪族は栄え、これにあぶれた豪商や豪族は海外に流出し、海賊(偽倭寇)になったと言われています。 地方の官僚は、庶民が必要としないこれらぜいたく品を強制的に売りさばいたと言われています。 |
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| 江口 廉著 「日本・中国交通史(日中交流二千年史)から引用 | ||||||
| D鉄砲伝来の火縄銃2挺は、中国倭寇船に乗っていたポルトガル人が持っていた。 | ||||||
| 1543年8月25日、中国人倭寇の首領王直(儒者五峯)の乗った明国船が荒天のため種子島に漂着し、乗組員は明国人、琉球人、ポルトガル人で二挺の鉄砲があったといわれます。この当日、後の傭兵集団である和歌山・根来寺の津田監物つだ けんもつが種子島にいたのです。種子島にある熊の浦という名の港は、和歌山の熊野地方にちなんだ名だと言われています。種子島と根来との太平洋の黒潮を介した海の交流があり、根来寺と大阪・堺商人、堺商人と織田信長の線が、その後の日本の歴史を変えていきました。 | ||||||
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| 当主の種子島時堯(ときたか)は、五峯を通訳にして鉄砲を銀2000両で購入しました。 この銀も兵庫県生野銀山が発見された翌年ですので、石見銀山産出の銀かもしれません。この当時の2000両は、今の貨幣単位で1億円と言われています。 なぜか、時堯は、1挺5千万円もしたであろう鉄砲を津田堅物に無料で譲り渡しているのです。 種子島は砂鉄が取れることから製鉄業が盛んで、鍛冶屋八坂金兵衛に同じものを作らせました。鉄砲の銃身は、細長い鉄板を筒状に丸めて、継ぎ目が分からなくなるまで熱し叩いていく。銃身の強度を高めるため、薄い帯状の鉄をらせん状に巻きつけ熱しながら叩いていく。しかし、銃身の底栓ができませんでした。ネジという概念がまだなかったのでした。 1544年1月、王直は船の修理も終わり、寧波に戻っていきました。 しかし、同年3月、今度はポルトガル人船長が種子島熊の浦に入港します。 この船にはポルトガル人の鉄砲鍛冶師かじしを乗せており、八坂金兵衛に内ネジの切り方を教えたと言われます。1545年、国産初の鉄砲が完成したのでした。 この種子島の一粒の種が、根来寺と堺商人、織田信長と堺商人の勢力拡大という根をどんどん張り続け、鉄砲は、日本の歴史を大きく変えていきました。 |
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| E鹿児島についたフランシスコ・ザビエル | ||||||
| 1549年8月、フランシスコ・ザビエルが、中国人倭寇・王直の船に乗り、鹿児島に上陸します。ザビエルが鹿児島に上陸してわずか3ヵ月後、「堺の港に倉庫を建て、金や銀と交換する貿易ができる。日本の王にインドに使いを出させ、西洋の珍品を見せれば、貿易ができる」と本国に手紙を送っています。 当時の宣教師は、貿易に関しての情報活動を行って通報を行っていたらしいのです。 後に京都に2週間滞在しており、天皇との謁見を願っていましたが、政情不安のため果たせませんでした。 ザビエルは、2年間の日本人への布教を反省し、日本人に布教するなら、まず、中国人を先にしなければならないと中国の地に渡りますが、1552年没してしまいます。 ザビエルの後に中国に入国したイエズス会マテオ・リッチは、1602年、「坤輿こんよ万国全図」(World Atlas)を表すことになります。 この世界地図は、日本とユーラシア大陸間の海を、初めて「日本海」という名称で表しています。18世紀になると、ラベルーズ(仏)、ブロート(英)、クルーゼンシュテルン(露)ら探検家が日本近海を調査し、日本海の正確な形状を明らかにしていきます。 特に、クルーゼンシュテルンは、彼の著書「世界周航記(1812年)」の中で、「人は、この海を朝鮮海とも名付けるが、この海は朝鮮の海岸にはごくわずかな部分しか現れていないので、「日本海」と名付けた方が良いだろう」と書いてあると言われています。 |
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| F16世紀、世界の銀の1/3が石見銀 | ||||||
| 小葉田淳著『日本鉱山史の研究』によれば、江戸時代の初め(17世紀初頭)、日本から輸出された銀は年間、4〜5万貫目(160〜200トン)に達し、当時の全世界の年間の銀産出量は約400トンだから、日本銀が世界の銀の3分の1を占めていたことになっています。 この試算は昭和8年発表以来、国際歴史学会で注目され、現在まで定説となっています。 |
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| 第二話 終わりです。 | ||||||