藩政時代には、異国船や難船を見張るために遠見番所が設置され、異状を発見した時、これを速やかに藩主に報告するための通信手段として、狼煙台が設けられた。
 遠見番所の数は、阿波海部郡沿岸に10ヶ所あったが、そこには狼煙台も設けられていた。

 狼煙は、古来行われていた通信の一つの手段であったが、天候、気象の制約を受け、通信の内容も詳しく伝達することはできなかったが、人馬の脚力に頼るほかないこの時代の通信手段としては、もっとも簡易にして迅速なものであった。

大神子狼煙台 黒山狼煙台 伊島狼煙台 鹿の首岬狼煙台 恵比須浜狼煙台 牟岐大島狼煙台 乳ヶ埼狼煙台 竹ヶ島狼煙台
大神子狼煙台
黒山狼煙台
伊島狼煙台
鹿ノ首岬狼煙台
恵比須浜狼煙台
牟岐大島狼煙台
乳ヶ埼狼煙台
竹ヶ島狼煙台
  註1

一 異国船漂流の儀、 土州・紀州の灘目其餘遠望たりとも聢と見定め候ニおいてハ油断なく煙を立て、御城下迄通達背しむべき事
  但右煙立て終わり候ニおいてハ、兼て囲い置きこれ有る煙草直ニ指し入れ、何時も煙相立て候儀指し支えざるよう仕立て申すべき事

一 異国船身請け候て、初度の煙相立て候うえ、なおまた御国灘見え近寄り候様子ニ相見え候ニおいてハ、早速二度目の煙相立て申すべき事
  但右煙立て候次第、異国船漂流の懸りニ応じ、処どの煙ニ押し続き、二度目の煙相立て候義もこれ有るべく、又は猶豫いたし候儀もこれ有るべく、いずれ右次第ハ 諸方配り向きの相図ニて、第一の御備えニ相当たり候義に候条、聊かも油断無く相 心得申すべき事

一 狼煙相立て候ニおいてハ、其村浦役人共えも早速申し継ぎ、急飛脚・急飛船相配り御城下並びに日和佐御陣屋え注進せしむべき事

一 左書の通り継ぎ立ての順相極めこれ有ると雖も>、いずれの場処に限らず、異(国)船漂流の体見付け、見定め候ニおいてハ、煙相初め速ニ継ぎ立て候事
  但竹ヶ嶋の外、御場処ニおいて異(国)船漂流の体見定め候砌煙立て候ハゝ、上筋へ継ぎ候 は勿論、下筋へも順々継ぎ立て候事

      宍喰浦 竹ヶ嶋     一ヶ処
                但此処より乳ノ崎え継ぐ
      鞆浦   乳ノ崎     一ヶ処
               但此処より愛宕山え継ぐ
      鞆浦   愛宕山     一ヶ処
               但此処より大嶋え継ぐ
      牟岐浦  大嶋      一ヶ処
               但此処より遠見崎え継ぐ
      恵比須浦> 遠見崎     一ヶ処
                但此処より鹿ノ首え継ぐ
      阿部浦 鹿ノ首    一ヶ処
               但此処より伊嶋え継ぐ
       椿泊浦 伊嶋     二ヶ処
               但此処より黒山え継ぐ
      西路見村 黒山     二ヶ処
               但此処より大神子山え継ぐ
      大原浦  大神子山   一ヶ処
               但(註=但の下は空欄になっている。)
  一 遠見勤番の儀は昼夜結び切れ少しも油断無く遠見せしむべき事

 右の条々、先年より度々申し渡しこれ有りといえども、なおまた改めて申し渡し置くもの也
                   坪井平右衛門
                    岩崎 猪源太
  文化五辰年

                     御番人中

参考文献等
         阿波国交通史・阿波の交通
()・阿波淡路両国番所跡探訪
              ふるさと阿波(阿波郷土会報142号)
             阿南市史・勝浦郡史・日和佐町史・牟岐町史・宍喰町史
         徳島県立博物館・文書館史料・牟岐町教育委員会史料
         海陽町立博物館史料・徳島県立埋蔵文化財センター史料
         阿南市史編纂室史料

註2

『大目付へ、をろしや船取斗方之義に付去寅年相達候旨も有之候所、其後蝦夷之嶋々ニ来り、狼藉に及ひ候上ハ、いつれの浦方にても、をろしや船と見請候ハゝ、厳重に打払、近付ニおいてハ召捕又は打捨、時宜ニ応し可申ハ勿論之事に候、万一難船漂着ニまきれ無之、舟具等も損し候程之義に候ハゝ、其処にとゝめ手当いたし置、可相伺候、畢竟をろしや不埒之次第ニ付、取斗方きひしくいたし候わけニ候条、油断なく可被申付候、
右之通万石以上以下海辺に領分有之面々へ不洩様可被相触候、以上』
                              (阿淡年表秘録)」

徳島藩が文化4年から実施した狼煙対策の内容は、
 「ふるさと阿波阿波郷土会報『阿波の狼煙について』西田 猛著  の抜粋から次のとおりであった。

『                            定
1 外国船漂流の件について、土佐国(高知)、紀伊国(和歌山)の近海または遠目であろうとも、きちんと見定めた場合は、油断の無いように煙を立て(狼煙を上げ)、徳島城下へ通報すること。
  ただし、狼煙を立て終えたときには、元より蓄えてある煙り草をすぐに入れて、いつでも煙を立てられるようにしておくこと。

2 外国船を見つけて、1度目の狼煙を立てた上で、さらに近づいて来るように見えたなら、早速2度目の狼煙を立てること。
  ただし、右のように狼煙を立てることは、外国船漂流の状況に合わせて、1度目の狼煙に続けて2度目の狼煙 をたてることもあるだろうし、または少し猶予することもあるだろう。いずれにしてもこのことは、さまざまな方面の配備への合図となり、第1番の備えにあたるところとなる。少しでも油断のないように心掛けること。

3 狼煙を立てたならば、狼煙場を管轄する村浦の役人(庄屋など)へも急いで知らせ、さらに急飛脚や急飛船を使って徳島城下および日和佐陣屋へ報告すること。

4 下記に記すとおり狼煙の継ぎ立ての順序を決めるが、いずれの場所に限らず、外国船が漂流している様子を見つけたり、はっきり目撃した場合、狼煙を上げ速やかに継ぎ立てること。
  ただし、竹ヶ島(宍喰・阿波国一番南部の遠見番所)の外の場所で外国船の漂流を目撃した場合、上筋(城下へ向けて)は勿論、下筋へも順々と狼煙を継ぎ立てること。

   宍喰浦(海陽町)    竹ヶ嶋         一ヶ所
                                  ここより乳ノ埼へ継ぐ

   鞆浦(海陽町)     乳ノ埼          一ヶ所
                                  ここより愛宕山へ継ぐ

   鞆浦(海陽町)     愛宕山         一ヶ所
                                  ここより大島へ継ぐ

   牟岐浦(牟岐町)    牟岐大島       一ヶ所
                                   ここより遠見埼(恵比須浜)へ継ぐ

   恵比須浦(美波町)   遠見崎(恵比須浜) 一ヶ所
                                  ここより鹿ノ首へ継ぐ

   阿部浦(美波町)    鹿ノ首         一ヶ所
                                  ここより伊島へ継ぐ

   椿泊浦(阿南市)    伊嶋          二ヶ所
                                  ここより黒山へ継ぐ

   西路見村(阿南市)  黒山           二ヶ所
                                  ここより大神子山へ継ぐ
   大原浦    大神子山              一ヶ処
                    
5 遠見勤番役人は、昼夜を問わず、少しの油断無く遠見を行うこと。

 上の条々、先年より度々申し渡しこれ有りといえども、なおまた改めて申し渡し置くも
 の也
                   坪井平右衛門
                    岩崎 猪源太
  文化五辰年
                    御番人中             』   *註1


 竹ヶ島から御城下までの間に、11ヶ所の狼煙場が設置され、異国船漂流の態様に応じた狼煙の揚げ方、村浦役人・御城下・日和佐御陣屋への連絡、急飛脚・急飛船の手配等々が規定されている。
 この年には異国船への対応を誤り、長崎奉行は引責自殺し、同じく職務怠慢の廉により35万7000石の大大名である鍋島藩侯ですら逼塞に 重役や南の海の第一線を担当する海部御郡代の気の入れようが察せられる。現に当藩においても、この年の11月に異国船の漂流があった。 (阿淡年表秘録)

 いわゆる「対岸の火事」ではなかったのである。
財政的にも両都御借銀繰替えのために郷中より3万両の御用金を調達する件等財政のやりくり状況の報告や、軍用面では海部表(おもて)の現有5挺の大筒に加えて56挺を増強する件、玉薬を増加配備する件・遠見番人を増員する件等々にわたって言上していることからして、異国船に関する直接間接の対応策について、徳島藩は相当の精力を使っていたものと思料される。

 なお、話は前後するが、文化四年も慌ただしく暮れようとしていた12月10日、幕府は海辺に領分を有する万石以上以下の面々に対して、次のように通達している。

『「大目付へ、ロシア船の取扱いについて去年(文化3年=寅年)通達したところであるが、その後、蝦夷の島々(北海道・樺太・千島列島其の他を含む島々)に来て、乱暴狼藉を行ったという。今後はどこの海岸においても、ロシア船と確認したら厳重に追い払い、近づいてきたなら、召し捕らえまたは撃ち殺してもかまわない。その時々に応じ対応することは当然である。万一、難破船として漂着したことに間違いなく、船の道具なども損傷がある場合は、その場所で手当てを行い、報告すること。つまるところ、ロシアが不埒であるため、取扱いを厳しくすることになったので、油断なく対応するよう申し付ける。このように一万石以上の大名、それ以下の者の内、海辺に領地を持つ者へ漏らさず触れるよう言い渡す。以上」   
                                    (阿淡年表秘録)』 *注2


文化3年(1806年)には海岸線に沿って狼煙台が設置され、連絡網は確立された。
 今までの記録を見ると椿泊、大神子の距離は、海部郡設置のそれと比較しても遠すぎるため伊島・福村(黒山)の順が妥当に思える。また、乳ヶ埼と大島の中間に鞆の狼煙台があったが、距離が近く、三ヶ所を順次連絡するのは不要の様に思える。さらに、椿泊及び鞆に狼煙台が存在したという記述はあるが、遺跡についての史料及び現地での調査では発見にいたっていない。しかしながら、鞆は阿波九城の一つがあった要地であり椿泊も森氏の根拠地であるから、一連の連絡網等とは別に、陸からの連絡も兼ねていたと考えればどうであろうか。



参考

 地方の行政機関として郡奉行と代官が置かれていたが、明和6年(1769年)に両方を併せた「郡代」となった。
  各郡代は3名で構成され、役所は徳島にあってそこに常駐していた。その後「代官」が復活し、平時は徳島に在住し時々任地に出張した。
 幕府の命により、各藩城は一国一城となり、海部城は廃城とともに、城跡に海部代官所が置かれ、寛政4年(1792年)からは鞆奥勤務が命ぜられた。寛政11年(1799年)に鞆浦の立岩に役所を普請し、御郡代所(御陣屋)と称した。
 文化4年(1807年)、海部御陣屋は日和佐(美波町)に移転した(鞆奥の御陣屋は廃止されずに残った)以後60年間明治に至るまで海部郡の行政の中心となった。現在の美波町役場日和佐小学校を含む一帯であり、間口90m、奥行87mで、蜂須賀氏の紋章卍の瓦で葺かれた土塀で囲まれていた。

 椿泊の森氏とは、森一族の本家、森志摩守村春はそれまでの功績により、豊臣秀吉から3000石の所領安堵状が与えられ、土佐泊城(鳴門市鳴門町土佐泊)にいた。新しく阿波へ入部した蜂須賀家政は、森一族の強大な水軍を高く評価しながらも、その勢力の増大を恐れて、土佐の抑えという名目で椿泊へ移封したのが1586(天正14)のこと。

 その後、森一族は九州の島津征伐、小田原の北条征伐、文禄・慶長(1592−98年) 朝鮮出兵、大阪冬の陣・夏の陣などで数々の戦功をたて、徳川家康・秀忠からも感状・陣羽織を賜っている。
 時代がくだって、もともと水軍を持たなかった蜂須賀家のため、参勤交代の際、船団の指揮を執るなど、藩の海上方として明治維新まで仕えた。
通信手段としての狼煙は天候による障害が多く、情報内容も簡単な事しか伝えられないため、明治5年にはすべて廃止したと云われている。

 狼煙の主な使用目的は、戦絡みの合図用であった。狼煙を上げるために、特に作られた施設を狼煙台といい、狼煙そのものの起源は明確ではないが言葉の由来は、煙が多く出る狼の糞を燃料にしたことがあったからとされる。

 わが国においては、兵部省「延喜式」(*兵部省:国防を司る行政機関、*延喜式:律令制度の細目を定めたもの)に大宰府に設けたことが記されている。備前国風土記・豊後国風土記・出雲国風土記等にもその記録がある。鎌倉時代・戦国時代・江戸時代を通じて、狼煙は用いられており、特に江戸時代には軍用だけでなく堂島の米相場を伊勢の桑名米市場に知らせるために大阪・伊勢の間に数箇所の狼煙台を設けて情報を伝達している。
                (大日本百科事典・平凡社大百科事典参照)

  徳島藩においても、従来から御上下の節(参勤交代)に洲本灘において自藩の船舶通行の合図に狼煙を用いてきた経緯があり、近世後期には、異国船が日本近海に姿を見せるようになったため、幕府から通達が出され、異常を発見したときの連絡用として、土州との国境にある竹ヶ島からご城下に至る海岸線に遠見番所や見張り番所を設置、狼煙台も併設された。南から宍喰の竹ヶ島、乳ヶ埼、鞆、牟岐大島、恵比須浜、
鹿の首岬、伊島、椿泊、黒山、大神子の順であるが、鞆と椿泊については、文献がなく諸説まちまちで、所在については不明である。

 
徳島藩の外国船対策としては、二代藩主忠英の時、海上方森甚五衛村純に対して、「九州日向表へ大船相見之候、御政道之南蛮船ニ而茂可有也と江戸表より御沙汰有之候、(以下略)」というように、唐船の抜荷とキリシタン対策について寛永年間(1624−1643)より行っていた。

 近世後期になると日本沿岸各地に異国船の出没が頻繁になり、徳島沿岸においても明和8年6月(1771)旧海部郡日和佐村に恵比須浦に一隻の異国船が漂着した。これはハンガリーの伯爵ベニョフスキーがカムチャッカから脱獄して奪ったロシア船であったが、藩はこの時、ベニョフスキーに水・薪・食糧を与えて立ち去らせた。

 郡代は諸士や郷鉄砲に出動命令を出し、大騒ぎで警備体制を取ったが、海上方や川口番所だけでは対応できなくなった。その他にも、徳島沿岸部には天明8年(1788)、文化5年11月(1808)異国船が出没し文化12年(1829)にはイギリス船が海部郡沿岸に出没、藩士鉄砲組が出動した記録がある。

 これ以後、阿波に限らず全国的に異国船の出没が頻繁化していくが、徳島藩では寛政4年(1792)北泊屋敷等に異国船への手当として鉄砲衆を派遣したり、翌寛政5年8月(1793)には異国船漂流に関する触書を出すなど海防のための沿岸警備に力を入れ始めた。
 その後、文化3年(1806)には幕府が諸大名にロシア船来航の際の取り扱い処置を指令したため、沿海諸藩においては海防警備が必須の課題となった。新しく遠見番所や見張番所が伊島や牟岐大島などの要所要所に置かれ海防警備の一環として作られていったものと思われる。
 しかしながら、道が悪い海部郡では、早馬や早船では連絡に時間がかかり、先の日和佐浦のロシア船漂着の際も連絡に時間がかかりすぎたため、迅速な連絡手段の必要性から、狼煙が通信のために利用されたのである。

「徳島沿岸に設けられていた狼煙台」

阿波の狼煙台

大神子狼煙台

乳ノ埼狼煙台

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