四方を海に囲まれた我が国では、海路の交通は早くから開けていた。
古墳時代の出土品に、両舷に櫂の穴、中央に帆柱用の穴がある船の模型が見つかっていることから、当時すでに船で帆走していたものと思われる。平安中期の古代史研究の重要な文献である“延喜式”には、19の諸国から京都への海路が詳細に記してあるが、その中に、当地”阿波“の名前もある。

 海運の発達に伴い、航路の道しるべとして航路標識が整備されたことが、大和朝廷時代の記録により知ることができる。太宰府は、壱岐、対馬、筑紫に防人を置き、烽火(とぶひ;外敵防備のための“のろし”を上げる施設)を使った海岸防備を行っていた。その位置が当時行われていた遣唐使の経路と重なっていたため、昼は“のろし”を上げ、夜はかがり火を焚かせ、一行が無事に帰還したとの記録がある。
 
 西暦839年、遣唐使一行の9艘の船が帰還途中、僚船が離散したが、朝廷の命令で、各地の“のろし台”に“かがり火”を焚かせ、一行が無事に帰還したとの記録がある。また、漁業の発達に伴い漁船は遠く沖に出るようになり、帰りが夜になれば船を導くための陸岸の高所で火を焚くことも古くから行われていた。 

 江戸時代になると、上方、江戸の経済交流が活発となり、西暦1619年、菱垣廻船が航行するようになり、海運は一段と発達した。さらに、江戸と京阪の大きな消費地を結ぶための、東回り(日本海〜津軽海峡〜太平洋〜江戸)、西回り(東北・北陸〜下関海峡・瀬戸内海〜大阪)などの大規模航路も開けた。

 それに伴い航路標識も整備され、慶長年間(西暦1600年頃)小倉藩主が、領内姫島に篝火を設け、航行船舶の便に供した。これが国内最初の燈台といわれている。これ以後、各地に篝火を設けるようになった。燈台の光源に、篝火ではなく、植物油を使うようになって、石造りの小塔上に木製の燈籠をおき、油紙障子で囲った“燈明台”が出現した。

 江戸時代の燈台は主として、油を使用したものと篝火を使用した燈台とに分けられた。それは油を使用した燈台は光力が弱かったため、視界不良時には、篝火のほうが有効であったからである。
 どちらの灯火にせよ、その時代の一般の灯火と、光力に大きな違いはなく、燈台のほかに古くから神社の燈籠の火を、「海の道しるべ」として利用されたものがあり、終夜点灯されたものが少なくなかった。

 次に示す、「阿波三峰について」と「阿波の狼煙台」の資料は、“海の道しるべ”(航路標識)として、遠い昔から船の安全航海を援け、それに伴って徳島の経済、海運を縁の下から支えてきた阿波の歴史の一端を示しています。
                                        (参考 日本灯台史)

〜 海の道しるべ 〜
「阿波三峰について」

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黒山狼煙台の古絵図
「阿波の狼煙台」
津峰山
津峰神社の常夜燈

津峰神社の常夜燈

黒山狼煙台の古絵図

阿波三峰のひとつ津峰山

菱垣廻船