犬吠埼灯台について

南西から見た犬吠埼灯台  君ヶ浜から見た犬吠埼灯台  正面から見た犬吠埼灯台  朝日と犬吠埼灯台 

灯台の歴史

 犬吠埼灯台の建設は、工部省灯台寮がイギリスから招へいした灯台技師、リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計、施工監督のもとに明治5年9月28日に着工し、明治7年11月15日に完成、点灯されました。
 その工事費用は、当時のお金で44,835円63銭だったそうです。

 工事には、19万3千枚のレンガが使用されましたが、当時、レンガはイギリスから輸入されていて、非常に高価だったようで、中沢孝政という灯台寮の技師が国産化を主張し、苦心の末、香取郡高岡村でレンガ造りに適した良質の土を発見し、付近の旧藩士に製造法を教え、製造したそうです。
 このレンガでできた灯塔は、100年以上もの歳月に耐え、現在も大空に向かってそびえたっています。

 灯台に使用されたレンズは、当時フランス製の第1等8面閃光レンズでしたが、これは太平洋戦争で一部が破壊され、現在は灯台局レンズ工場で製造された第1等4面閃光レンズが使用されています。
 太平洋戦争で破損したレンズは一部復元され、灯台構内にオープンした灯台資料展示館内で展示されています。
 レンズは、高さ約2.6メートル、直径約1.9メートルもある大きなもので、このレンズを水銀が入った器のようなものに浮かべ、浮かんでいるレンズをモーターで回転させて点灯しています。

 灯台を光らせる装置も当初は石油灯が使用されていましたが、大正12年に電気化された後、改良を加え、現在は灯台用に設計された400ワットの電球を使用し、光を発しています。たった400ワットと思うかもしれませんが、レンズにより集光され、約36km先の海上まで届くようになっています。

 最初の灯台長は、イギリス人のウィリアム・バウエルスさんという人で、外国人の灯台長は、明治11年10月まで5代続き、その後は日本人の手により管理されるようになりました。

 現在、犬吠埼灯台は、気象を提供する船舶気象通報、人工衛星(GPS)の誤差情報を提供するディファレンシャルGPS局等の業務も扱う最大級の灯台となり、船舶が安全で経済的に航行ができるよう日々光っています。


灯台の概要

位   置 北緯35度42分28秒、東経140度52分07秒
塗色・構造 白色 塔形 (レンガ造)
灯質 単閃白光 毎15秒に1閃光
光   度 110万カンデラ
光達距離 19.5海里(約36キロメートル)
明   弧 灯台を中心に169度から65度まで
高   さ 地上から光まで約27メートル
平均水面上から光まで約52メートル
船舶気象通報 風向・風速・気圧・波高


犬吠埼灯台のこーんな話

<階段の秘密>
 犬吠埼灯台にはエレベータはありません。
 昇るには長ーい螺旋階段を息を切らせながら登ることになります。全部で99段もあります。
 これは建設当時、イギリス人技師が近くの九十九里浜にちなんで設計したとも言われています。

<魚が捕れない!>
 完成間近の犬吠埼灯台の大きなレンズを見た地元漁民は、この光が明るすぎて魚が獲れなくなるのでは、と大変心配したそうですが、翌年は稀に見るカツオの大漁となり、灯台のおかげと喜ばれてしまったそうです。

<珍しい地名>
 岬等の地名の「さき」にはふつう、山へんの「崎」が使用されていますが、ほとんどの灯台の名前には土へんの「埼」が使われています。
山へんの「崎」は山がそのまま海に突き出たところという意味です。土へんの「埼」は木の生えていない土(崖)が海に突き出た場所という意味になります。石へんの「碕」もあり、これはもちろん、岩が海に突き出た土地という意味です。有名な灯台では島根県の出雲日御碕(いずもひのみさき)灯台があります。宮城県には陸前御崎岬灯台(りくぜんみさきさき)のように崎と岬がくっついた地名もあります。  ところで、犬吠埼灯台は、全国でも珍しく地名も名前も土へんの「埼」が使用されています。

<除夜の鐘?>
 犬吠埼灯台には、霧等で視界が悪い時、空気を圧縮して大きなサイレンの音を出し、灯台が近くにあることを船舶に知らせるための霧信号所がありました(平成20年3月31日廃止)。
 霧信号は、明治10年に日本ではじめて青森県の尻屋埼灯台に設置されましたが、当時は「除夜の鐘」のようなものを鳴らしていたそうです。
 その第1号の鐘は巡りめぐって現在は、犬吠埼灯台の構内に展示されています。

<レンズのサイズ>
 大きな灯台は、レンズの大きさにより第1等灯台、第2等灯台、・・・という呼び方があります。
 これは、第1等が1番大きいのですが、犬吠埼灯台にはその第1等レンズが使用されています。レンズの内径は1.8mあまりあり、大人の身長ほどもある巨大なものです。

<大戦中の殉職>
 犬吠埼灯台は、終戦間際の昭和20年8月10日に7機の戦闘機による爆弾と機関砲の攻撃を受けたそうです。
 灯台では住み込みで職員が働いていましたが、当時勤務していた高木技術員は、その攻撃で亡くなられたそうです。


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